自由とわがままの違いは責任の所在にある

自分の力で稼ぐ考え方

今回は「自由」と「わがまま」の違いについて書いてみます。

 

「一体何を言い出すんだ?」と思うかもしれませんが、昨日一日、このことについてずっと考えていました。

 

「自由」は元々「わがまま」の意味も持っていた

「自由」とは、誰にも縛られない、そして何事にも縛られない状態を表す言葉です。

色んなところにつかわれている言葉ですが、漠然としてつかみどころがない言葉ですので、私たちも普段は真の意味合いについては考えることもありません。

調べてみると、この「自由」という言葉は元々は哲学の用語です。

 

言葉が時代と共に変化することはよくあることで、私たちが一番耳にしているであろう「輸入」も、明治時代までは「しにゅう」と読んでいました。なんだか、しっくりと来ないですよね。

「自由」も、あの有名な「徒然草」では「わがまま・人の言うことを聞かない」という意味でつかわれていました。

 

一見「わがまま」でも彼らなりの「自由」だった

ふと、中学校の担任から「お前ら、自由とわがままは違うぞ」と何度も聞かされていたのを思い出しました。

 

「自由」と「わがまま」本当によく似た言葉です。ちょっと考えただけでは、どう違うかがわかりません。

 

現代では「自由」はプラスの意味合いでつかわれていることが多く、反対に「わがまま」はマイナスの意味合いが強いです。

 

当時、私の通う中学校には校則があって、男子は丸刈りで詰め襟(いわゆる学ラン)の着用が義務付けられていました。

 

中学校は非常に荒れており、しばしば問題を起こす生徒は、彼ら・彼女らなりの「自由」な服装や頭髪で自分たちを表現していました。

 

校則に違反することこそが、何事にも縛られない、彼ら・彼女らなりの「自由」であったわけです。

 

どうして自由を求めないんだろう

彼ら・彼女らの目には、校則を守って普通に通学していた私たちは、どう映っていたのでしょうか。

 

規則に縛られている奴は、さぞかし窮屈だろうな

どうして自由を求めないんだろう

 

こんなことを考えていたのでしょう。

校則を守って通学していた私たちは、そのことを何か特別なことをしているとは思いません。決められたことを、その通りにしていただけです。

 

自由に生きるのも楽ではない

自営業の家庭に育った私は、自由に働く親の背中を見て育ちました。

 

ただ、金銭的な苦労もありましたし、親は常に身を粉にして働き詰めでした。

 

そしていつの日か、私はサラリーマンとして会社勤めをするようになりましたが、自由に生きることの厳しさを知っていたので、なるべくサラリーマンとしての人生を歩もうと考えていました。

 

決められた時間に出社して、決められた業務をこなし、決められた給与で、決められた日数、働いていました。

 

窮屈さを感じて自由を求め始めた

サラリーマン生活も長くなると、次第にその窮屈な生き方に疑問を感じるようになります。

 

校則の存在に疑問を感じず、そうすることが当たり前と考えて過ごしていた学生時代では考えもしなかった思いを抱くようになります。

 

「もう自由になりたい」と。

 

決められたことを無難にこなせば、毎月決まった金額の給与が口座に振り込まれる。そんな快適な人生を捨ててまでも、自由を求めるようになりました。

 

私は今、かつてのサラリーマンではなく、自営業として時間の制約を受けず、働く場所に拘束されずに仕事をしています。

 

自由とわがままは責任の所在が異なる

自由には必ず「責任」がつきまといます。

 

自由を選んだことによって、金銭的に困窮することになっても、それは自分で道を選んだ責任です。

 

反面、「わがまま」には責任が伴いません。

 

「自由」と「わがまま」

 

自分の意志に従って取る行動という意味では、両者は同じなのですが、責任の所在だけが異なります。

 

何があっても自己責任である代わりに、時間・場所に縛られない自由が得られます。

 

私は、最終的には金銭的にも自由になることを目指し、ただ、責任は常に意識しながら日々の輸出入ビジネスに対して取り組んでいます。

 

あなたは、今、自由を求めていますか?

 

求めている場合は、それには常に責任がつきまとうことを意識しているでしょうか?

 

今日一日、私と一緒に考えてみませんか?

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